雑記

祖父の希望は「可能な限り自宅で普通に暮らすこと」だった。

 

「普通」が人それぞれ異なるのは周知の事実として、同じ人のなかでも人生のどの時点かによって「普通」は異なる。

 

ひとりの老人の、ありふれた、等身大の「普通」の毎日のために、日々私たち家族は奔走している。

 

余命は伝えない。

それは私たち家族が決めたことだった。

あまりに酷だと、60年以上人生を共にした祖母は泣いた。

 

けれど祖父は淡々と、諭すかのように粛々と、終末期医療の話を自ら家族に説明した。本当は誰よりもいちばん分かっているのかもしれない。

 

今私たち家族は、祖父の「幸せな普通の暮らし」をどうにかこうにか形にするために、文字通り奔走している。

 

同居する祖母はもちろん、近くに住む子どもたちや孫たちは、自分たちの生活の営みのほかに、祖父の生活に寄り添うように過ごしている。時に己の感情のコントロールが効かなくなり、遠方に住む私に飛び火することもある。

 

きっとすぐ。もう二度と会えなくなってしまう人間を前にして、日常生活を送ることは、とてつもなく苦しい。私は今、それが怖い。

 

唯一遠く離れた地で暮らす私も、明日に控えた帰省のために年始からしっかりと勤労していたし、今もとてつもない緊張感のなか抗原定性検査の順番を待っている。ドキドキ。

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そんななか送られてきたLINE。

(※なお私が明日帰るとはまだ誰も知らない)

 

きっと私が祖父母と母と4人で暮らしていた時期、私が「普通」だと思っていた子どものころ、学生のころ。きっと周りの大人たちは、私の「普通」を守るために奔走していたのだと思う。

 

学校で怪我をしたとき、貧血で倒れたとき、登校中に友人と大喧嘩をして泣きながら引き返して帰宅したとき……私の知らないところできっと大人たちは誰かしらが学校や職場に頭を下げて、私のそばに駆けつけてくれていた。

 

大人になった私は今、急に長期の休みを取ることに対して、上司や同僚に頭を下げて引き継ぎをしている。あのころの私の「普通」のために奔走してくれていたひとの「普通」を叶えるために。

 

「普通」って、誰かの努力の賜物なのだと思う。知らないところで、それぞれの当たり前を守るひとがいる。そしてそれは全てのひとがいずれ担うものなんだと思う。

当たり前のように食卓が広がり、雨風を凌げる家がある。それはそれを守るひとがいるからだ。食材を作るひとがいて、運ぶひとがいて、陳列するひとがいて、買うひとがいて、調理するひとがいるから食卓は出来上がる。建てるひとがいて、維持するひとがいて、家屋は成り立つ。

当たり前は、誰かの労力のうえに成り立つのだ。そう、そして今はもう、私の番になった。

 

京都市の無料検査の結果、先程無事に陰性の証明がされた。明日の今頃は2年ぶりの実家となる。

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泣いてしまわないだろうか、受け入れられるのだろうか、大いに心配だけれど、2週間の「普通の暮らし」ときちんと向かい合おうと思う。

 

さて、果たして荷造りは終わるのだろうか。