電車内で我慢できずに静かに泣いている人がいるなら、その人には大切な人が居るということです。

この13日間の帰省のことを何もわかっていなかったと、中頃あたりで私はようやく気づいた。

 

私はこの期間を特別なものだと思っていた。末期ガン、余命3ヶ月と宣告された祖父と過ごす、2年ぶりの帰省。きっと、家族で落ち着いて過ごすことのできる、最後の帰省になる。だから特別なものだと、年末に検査結果を聞いたときから構えていた。

 

けれどその日々は決して特別なものではなかった。呆気にとられるほど「日常」だった。日常のなかに、確かに「命の終わり」があった。それは決して特別なものではなく、日常の繰り返しのなかのひとつなのだと、私は思うようになった。

 

私が実家に居た、たった13日の間に、料理好きの祖父は包丁を持つことができなくなった。ひとりで入浴をすることもおぼつかなくなった。立ち上がり寝室から居間に移動するだけでも、息切れが続くようになった。体重は「5キロ減った」と言っていたが、きっとそれ以上だと思う。

 

「ひとつひとつできなくなっていくひとが、それでもやりたいと言って、何度休憩をしてもキッチンにだけは毎日立つの。そのひとから無理矢理、料理を取り上げるなんて、私はできないよ」

 

「祖父に無理をさせるな」と母や叔父に嗜められたときに、私はそう言った。何度「代わるよ」と言っても決して包丁を離さない祖父に「俺はもう、何を作るか、計画を立てているんだ」と、これまた何度も叱られていた。私は叱られてばかりいる。

 

祖父は昨年秋の85歳の誕生日の抱負を「離れて暮らす孫にごはんを作りたい」と話していた。サプライズの前倒し帰省の翌朝から張り切ってその腕を奮ってくれていた。私の大好物はもちろん、終戦記念日に必ず食卓に出されるすいとんも作ってくれた。どれも絶品で懐かしく、私が育った味だった。

 

帰省中、祖父の最後の料理は野菜炒めと焼肉だった。ふとキッチンに立つ祖父のそばに行くと、彼は消え入りそうな声で私に「うまく、うまくね、つくれないや」と言った。彼の握るフライパンの中では、びしゃびしゃと、力の抜けた、茶色い加熱された野菜たちがぐったりとしていた。

 

「大丈夫だよ、あんかけにしようね。あんかけにしたらさ、ごはんにかけても、おうどんにかけても美味しいよ」私はできる限り祖父の顔を見ないようにして、お椀のなかの水と片栗粉をかき混ぜた。がっくりと肩の落ちた祖父に「大丈夫だからね」と何度も言いながら、フライパンの中の野菜炒めにとろみをつけた。翌朝から、祖父はキッチンに立たなくなった。

 

私が自宅に戻る前夜の食卓で、離れて座っていても喘鳴が聞こえるほど、祖父の呼吸が乱れた。ここ数日、食事の際に咽せることが増えていた。いつもなら、しばらくすると落ち着いてくるはずが、このときはなかなか治まらず、はっきりと喘鳴が聞こえたため、喘息の家系の私たちの行動は速かった。

 

「大丈夫!いいから!」と息も絶え絶えな祖父が遮るのを無視して、私と母は訪問看護に電話を入れた。訪問看護の到着までの間に頓服薬を飲んでもらい、安静にしてもらうと、診察時にはかなり楽になった様子だった。

 

「大丈夫なうちに、大丈夫じゃなくなったときのことを、考えてほしいんです、ご家族に頼ってほしいんです」

 

担当ナースの言葉に、さっきまでいつもの冷静さを失って声を荒げていた祖父は「そうですね」と小さな声で頷いていた。とても小さな、掠れた声だった。

 

 

いつも通りの帰省最終日の朝だった。

朝からバタバタと洗濯をしつつ荷物を詰める私、私に持たせるお惣菜を作る母、あれやこれやと忘れそうなものを大声で教えてくれる祖母、それをこたつから黙って見ている、と思いきやタイムキーパーをする祖父。

 

最後、家を出る時間の15分前、私は全ての準備を終えて、祖父の隣、私の席に座った。座って幼い頃からずっとそうしてきたように、冷え切った手を、祖父の手に当てた。

 

祖父の手は、温かかった。とても暖かかった。

あまりにもあたたかくて、我慢ができなかった。

 

泣かないつもりだった。

最後まで笑って「大丈夫だよ」って明るく声をかけて、笑顔のまま、明るくて騒がしい私のままで、この帰省を終えるつもりだった。

 

私がどれだけ手を握ろうとも、祖父は握り返すことをせず、ただ優しくとんとんと私の手を力無く叩いた。

 

「身体を大事に、自分を大事にしなさい」

 

祖父の背中に顔をつけて泣く私の腕を撫でながら、そう言った。寝返りすら苦しいと言う祖父は、私と向かい合うことも、抱きしめ返すこともしなかった。そしてただ「お前の手は冷たいなぁ」と呟くように言った。幼い頃、それに続けるようにして言っていた「死人みたいな手だな」という言葉は飲み込んでいた。

 

扉は、開くし、閉じるものだ。

 

あの日、帰ってきた日、ドアを開けてくれたのは祖父だった。驚く様子はしっかりと録画や録音に残していて、帰省中に家族で何度も聞き返して笑った。

 

その重さで、自然と閉まっていく玄関扉を、私は無情だと思った。たった13日前、扉を開けてくれた祖父は、明らかに身体が小さくなっていて、強張った表情のまま、壁にもたれるようにして私を見送った。家族の誰も、また開ける勇気はなく、鍵をかける気力もなく、ただすすり泣いていた。

 

「行こうか」と、私が言ったのか、母が言ったのか、何も覚えていない。ただ言葉だけが合図のように、冷え切った階段ホールに響いていた。積もる雪に足を取られながら、その感触があの日の片栗粉みたいだと思い、脈絡のなさに少しだけ笑い、また泣いた。

 

 

自宅に戻る電車のなかで書いては消して、書き足してまた直し、何度も涙が出てしまった。ひとつひとつ思い出して、全部、ひとつ残らず全部書き留めておきたいのに、何度も涙がそれを引き止めた。

 

きっとこれから、来て欲しくない「その日」を迎えるまで、それを何度も何度も繰り返していくと思う。私はどこか傍観者で、でも絶対に登場人物でもある。何度だって書き留めていくだろうし、何度だって思い出して、何度だって涙を流すだろう。

 

特別ではなかった、日常の繰り返しのなかで、ひとりの人間と、その周りの人間たちが、ひとつひとつの「生きていく作業」を少しずつ手放して、生きることを終えていくさまを、一緒に受け入れていくことを、特別ではないからこそ、書き残したいと、今の私はそう、思うのです。

雑記

祖父の希望は「可能な限り自宅で普通に暮らすこと」だった。

 

「普通」が人それぞれ異なるのは周知の事実として、同じ人のなかでも人生のどの時点かによって「普通」は異なる。

 

ひとりの老人の、ありふれた、等身大の「普通」の毎日のために、日々私たち家族は奔走している。

 

余命は伝えない。

それは私たち家族が決めたことだった。

あまりに酷だと、60年以上人生を共にした祖母は泣いた。

 

けれど祖父は淡々と、諭すかのように粛々と、終末期医療の話を自ら家族に説明した。本当は誰よりもいちばん分かっているのかもしれない。

 

今私たち家族は、祖父の「幸せな普通の暮らし」をどうにかこうにか形にするために、文字通り奔走している。

 

同居する祖母はもちろん、近くに住む子どもたちや孫たちは、自分たちの生活の営みのほかに、祖父の生活に寄り添うように過ごしている。時に己の感情のコントロールが効かなくなり、遠方に住む私に飛び火することもある。

 

きっとすぐ。もう二度と会えなくなってしまう人間を前にして、日常生活を送ることは、とてつもなく苦しい。私は今、それが怖い。

 

唯一遠く離れた地で暮らす私も、明日に控えた帰省のために年始からしっかりと勤労していたし、今もとてつもない緊張感のなか抗原定性検査の順番を待っている。ドキドキ。

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そんななか送られてきたLINE。

(※なお私が明日帰るとはまだ誰も知らない)

 

きっと私が祖父母と母と4人で暮らしていた時期、私が「普通」だと思っていた子どものころ、学生のころ。きっと周りの大人たちは、私の「普通」を守るために奔走していたのだと思う。

 

学校で怪我をしたとき、貧血で倒れたとき、登校中に友人と大喧嘩をして泣きながら引き返して帰宅したとき……私の知らないところできっと大人たちは誰かしらが学校や職場に頭を下げて、私のそばに駆けつけてくれていた。

 

大人になった私は今、急に長期の休みを取ることに対して、上司や同僚に頭を下げて引き継ぎをしている。あのころの私の「普通」のために奔走してくれていたひとの「普通」を叶えるために。

 

「普通」って、誰かの努力の賜物なのだと思う。知らないところで、それぞれの当たり前を守るひとがいる。そしてそれは全てのひとがいずれ担うものなんだと思う。

当たり前のように食卓が広がり、雨風を凌げる家がある。それはそれを守るひとがいるからだ。食材を作るひとがいて、運ぶひとがいて、陳列するひとがいて、買うひとがいて、調理するひとがいるから食卓は出来上がる。建てるひとがいて、維持するひとがいて、家屋は成り立つ。

当たり前は、誰かの労力のうえに成り立つのだ。そう、そして今はもう、私の番になった。

 

京都市の無料検査の結果、先程無事に陰性の証明がされた。明日の今頃は2年ぶりの実家となる。

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泣いてしまわないだろうか、受け入れられるのだろうか、大いに心配だけれど、2週間の「普通の暮らし」ときちんと向かい合おうと思う。

 

さて、果たして荷造りは終わるのだろうか。

2021/12/24〜26

祖父にLINEを送り始める。

見切り発車でネタがなくて画像に頼る。

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ちなみに「長野はそんなに寒くない」と言いつつ元気よくいつ見ても氷点下ではある。

 

25日、祖父の転移の発覚後、初めて上司とシフトが被ったので、話す時間をもらって状況を説明する。可能な限り帰省期間を長くしたい旨、できるなら当初の予定よりも早めに帰省をしたい旨を相談する。週明けに上司から更にその上司に掛け合ってもらう手筈を組む。

 

上司に説明をしながら泣いてしまわないか不安だったが、私は妙に冷静だった。上司からは業務的な連絡のほか「忙しい時期に私用で時間をとっていただいて申し訳ありません」の謝罪に対して「あのとき相談すれば良かったと後悔するくらいなら、気にせずに言ってね、そのときには戻れないから」と声をかけてもらった。

 

「今回の帰省だけでなく、これから祖父の件でご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」と、その日は他のスタッフたちに何度も言った。そのたびに「良い時間を過ごせたら、それでいいんですよ」と声をかけられた。

 

幸いなことに冬季の閑散期ということもあり、13日間の休暇を取れる仮段階となった。有給休暇を貯めておいて良かったし、国は取得の推進をしてくれていて良かった。

 

着々と事務的な手配を済ませていくうちに、なんとなく気持ちも一緒に整理されていく気分だった。太刀打ちのできない病に対する無力さや死への恐怖、生の危うさ、考えても仕方のないこと、でもどこかできちんと直面しなければならないこと。それらを私は事務的な手配を整えていくことで、どうにか自我を保ち、視界が徐々に整理され、そして自分が今見るべきものだけを見られるようになった。

 

私は祖父の希望通り「少しでも長く、普通の暮らしをしたい」を叶えるために尽力するしかないのです。

 

この辺りから、波はあるものの徐々にSNSで発言したり、友人と話したりができるようになってくる。進歩。

2021/12/23

浴室で洗顔をしていると祖母から着信が入る。

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洗顔を終えて湯船に浸かりながら折り返す。

前日に母と電話越しに喧嘩をしていたのが気になっていたようで、母がいないときを見計らって電話をくれた。

 

祖父は離れて暮らすことを心配はしていたけれど、実家にいたときよりも私が生き生きとしていること、仕事を頑張っていることをずっと喜んでいるんだから、お前が無理しないでもできることをしてあげたらいいんだよ、と静かな、それでいて温かな声色で伝えられる。

 

私も「今すぐ行けるなら行きたい、でも私だって社会人だし、仕事を放って行けるわけじゃない、それだけが心配の形じゃない」と素直に話し始めると、いつもは一方的に話したいことをつらつらと話してくる祖母も、相槌を打ちながら聞いてくれた。

 

「1日でも早く帰るからさ、みんなでゆっくり美味しいものいっぱい食べようよ!あと私がおばあちゃんとお母さんのメイクもするし、全員でとびっきりのオシャレしてさ、私、カメラ一式持っていくから、家族写真撮ろう!」

 

私の提案にも「いいねえ、いいねえ」と笑ってくれた。

 

そして「もう遅くなるから早くお風呂に入りなさい」と電話を切る流れになるも「実はさ…」と切り出してくるので、何の気なしに「なぁに?」と返すと「おじいさん、あんたと電話を切ったあと、ずーっと“うちの子はほんとに綺麗になった”って、ほんとずーっと言ってんのよ」と想像していない角度からの暴露。

 

「いくら内孫って言ってもさ、もうあんたのこと自分の子どもみたいなことばっかり言うんだよ」と半ば呆れながら笑う祖母。この辺りからこっそり目の奥が熱くなり始める。

 

「時間のある時でいいからさ、LINE、入れてやりな、心配してくれる孫がいるってだけで、色々あったこともさ、きっと最後は良かったなって思えるからさ」

 

通話を切ってから、私はようやく泣いた。

湯船に浸かりながら、浴室に響く自分の嗚咽が耳障りだと思うも止められず、もう隣人から苦情が来ても構わないと思うくらいに声を上げて泣いた。許してくれ、私は今、とてつもなく悲しいんだ。

 

 

大人になって、大抵のことはなんでも、ひとりで出来るようになった、と思っていた。

 

でも私は、祖母に話を聞いてもらうまで、ひとりで泣くことも出来なかった。

 

父親のような、母親のような、そんな祖父に迫る死を、私はひとりで抱えようとして、出来なかった。それどころか手を触れることすら出来なかった。祖母と話すまで、抱えていたと思っていたのだが、実は距離をとりながら見つめていただけだと思い知った。祖母に手を引かれ、ようやく私はその事実の冷たさに触れることになった。

 

ひとしきり泣きじゃくったあと、私は日記をつけることにした。

 

このブログのタイトルは「あさぎゆめみし」

 

いろはうたの意味のまま、そして「浅き夢」よりも更に、浅葱色のように青い、そんな私の日記です。

2021/12/21〜22

21日夕方に母から祖父の緊急入院の一報が入る。

夜に一度不在着信あるも外出中のため出られず。続報、文面では「無事に入院したので安心して」とのこと。

 

22日、前日にした検査の結果、癌の転移が発覚。祖父に余命なるものが与えられる。「余命とは?」と思いつつ祖母と母と通話するが、妙に冷静な私。母が卑屈なことを言うのでブチギレて電話を切る。

 

元々混雑時を避けて1月半ばに帰省するよう調整していたので「年末年始には帰省しない、資金的にも何度も帰省するよりは少しでも長く帰れるように調整する」と返すと「あっそ、もうあんたは一生おじいちゃんのお雑煮は食べれないんだね、覚悟しなさいね」と言われ「そんな卑屈な言い方しなくていいじゃん」と返す。すると「私ばっかり病院に行って医者から聞きたくもない話を聞かされる!」と逆ギレされたので「同居する長女なんだから当然でしょう」と諭すも「薄情者!」と罵られたので、おとなげなく「こっちは建設的に考えてゆっくり一緒の時間を過ごせるように考えてるだけだよ、話にならない」とブチギレて電話を切る。

 

今思えばひんやりとした報告を各所に伝えなければならない母の心持ちも分からなくはない。彼女の抱く悲しみや辛さには共感が必要だったんだろうとも思う。一緒に涙を流して、できるだけ早くそばに行って寄り添ってあげたほうが良かったのかもしれない。彼女はそういう性質の人間だということは、娘として心得ていたし、同時に少し冷めている私にとっては相入れない部分のひとつでもある。親子といえど違う生き物なのである。

 

そもそも後悔なんて絶対にする。

これまでかけてきた沢山の迷惑と、それに伴う感謝、すぐに飛んでいけない生活圏の違い、諸々に加えて今は感染症の蔓延具合だって懸念しなければならない。忘れてはならない、私は観光地で、色々なところから来た多くの人たちと接しながら働いているのだ。忘れてはならない、目の前に居る笑顔の店員にも、家族がいる。

 

でもそれでも、各々のこれまでの在り方や、置かれている現状のなかで最大限にやれるだけのことをやるしかない。今、これまでの人生で選び取ってきた自分の立ち位置で、己が持っている最大限の手札たちで、必ず来てしまうその日を迎える準備をするしかない。

 

それはそれぞれが当人と対峙するうえで起こることで、親といえど第三者が口を挟むことではない。近くにいようが遠くにいようが、何をしようがしなかろうが、多かれ少なかれそこに必ず後悔は生まれてくる。

 

それは来年の手帳を買うように当たり前に、無意識のうちに未来のこと、生きることを前提に日々を過ごしているからだと思う。自分にも明日があり、目の前の人にも明日がある。だから明日の話をする。突然それが確約ではなくなるのだ。後悔なんてしないわけがない。

 

ただ死を前提に生きるのとは違うとも思う。後悔があるからこそその時まで最大限に尽力をしようとするのだし、その日以降はその後悔を思い出たちと一緒に、心に宿しながら過ごしていく。それが「弔い」なのだと私は思う。

 

母とは相入れないまま終了。

私はこのとき、まだ涙を流していない。

2021/12/18

祖父からLINEが届き、ビデオ通話。

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久しぶりのビデオ通話、終始「綺麗になった」と絶賛で照れるも「まあ前からやけどな」と返す。

 

実家の人々と代わる代わる話す。

祖母はカメラを理解できず、祖母の耳のアップを見ながら通話をする。

 

ここでうっすら「最近おじいちゃん、調子が悪いんだよね〜」と祖母と母から聞く。心臓疾患の持病があるので「寒さがきついのかな、気をつけてね」と返す。祖父からは「お前も気をつけて仕事しろよ」と言われる。いつも通り。

 

「じゃあ元気が出ること教えてあげるね〜!」と来月半ばに帰ると予告。

「たまにはお前の飯を食わせろ」と言われて「4人分なんて作ったことないもん」と返すも引かないので渋々了承する。